

生暖かい銀座の雑踏を抜け、ギャラリーの入口の階段を降り始めると、森が鼻腔の奥へじわじわと広がっていく。この香りは、ヒノキかスギか、それとも土?
ダウンロードしたArtStickerを起動し、イヤホンをつけると、綾子さんが耳元に現れ、囁くように作品を紹介する。背後に響く蝉の声を聴きながら。


道志の山で、ある時は、マムシに見つめられながら集めた枝葉が、視覚、嗅覚、聴覚を通じて再編されていた。この空間で刺激される総合的な感覚が、自身の中、脳内にある個人的な自然の記憶を呼び覚ます。それは、枯れ葉を踏み締め、日光の降り注ぐ広葉樹の森を歩く記憶だったり、苔むす岩がある暗い人工林のひんやりした空気や、透き通る水流と奥から溢れる気泡の束を見つめている記憶だったりする。
8種類の香りの中から選択したのは、その香りが、雨上がりに湿った土から立ち上る、少しむせかえるような記憶が浮かんだから。ザックを背負って黙々と山道を歩く時、チェンソーを持って玉切りをしようとする時、しばしば出会う。同時に、汗ばんだ肌や、坂を登る足への負荷も思い浮かぶ。それが自分にとっての珍味的記憶なのだろうか。
綾子さんにとってその香りは、「野生との濃厚接触」。8種類の香りは、綾子さんの珍味的記憶として、タイトルと詩的なテキストによって紹介される。そうして、自分自身の個人の記憶が誘発され、向き合い、降りていく。
その記憶に紐づけられた、マスクに広がる香りとともに、ギャラリーを出る。
銀座の雑踏に紛れても、脳には瑞々しい森が広がっていた。


1919年(大正8年)に開始した、日本最古の歴史を持つ資生堂ギャラリー。「新しい美の発見と創造」をテーマに、3,100回以上の展覧会を開催してきた。今回の展覧会は、コロナ後の社会に対して、都市と地方、人間と自然、感覚と暮らしを再考し、新たな行動様式について個々人が感じとる機会を与えてくれる。自然と断絶している人間は存在しない。その繋がりをどのように発見し、紡いでいくか。そのための機会と体験はもっと多様性があっていい。
展覧会の観賞後は、視覚、嗅覚、聴覚に次いで、味覚と触覚で味わう、(記憶の珍味×FARO)Dinner Experience。全ての感覚を総動員し、没入する魅惑の体験が続く。




