僕は20代の頃、趣味で少人数の読書会をひらいていました。

一冊の課題本を選定して、それを読んできた人達が意見を交換するんです。

東京、横浜の公共施設やカフェなどで参加者を募って月に2回ほど集まっていました。面白くて3年ぐらい続けていました。

色んな人の意見を取り入れることで多角的視野を醸成することが僕の目的でした。

そんなことをしていたら、ある大学から声がかかり、うちでやってくれないかと言われました。

面白そうだなと思ったのでOKして、最初の課題本は「これからの正義の話をしよう」著:マイケルサンデルを選びました。

大学での初日の読書会の日には読売新聞も取材に入り、初対面の老若男女が10名以上いました。

哲学は初めて、という人がほとんどでしたので専門的な話は無しにして、表面上のとっつきやすいところから入りました。

この本を読んだことがある人はわかると思いますが、たくさんの哲学的な問いが登場します。

例えば、あなたは列車の運転士です。そしてブレーキが壊れていることに気が付きます。止まれない!

このまま進むと線路上には作業員が5人いてその人たちを間違いなくひき殺してしまいます。

しかし、ハンドルを切って右のレールに進むと作業員は1人いるだけです。5人が死ぬ未来と1人が死ぬ未来、どちらを選択しますか?

という具合です。そういった例を通して、歴史上の哲学者のいろんな考え方を学んでいくわけですね。

哲学的な議論の詳細は難しいのでここでは省きますが、僕はそのまま直進する未来を選択すると答えました。つまり僕は5人をひき殺すわけですね。なんとおぞましい。

多くの人が自分の意志でハンドルを切って1人をひき殺して5人を救うと答えました。

そうすると、命は数が重要なのでしょうか?という議論に進みます。

多数の幸福のためには少数が犠牲になっても良いのでしょうか?とか、

少数が犠牲になっても良いとするならば、古代ローマ時代にライオンと戦わされたキリスト教徒たちはどうでしょうか?

大勢の市民の娯楽のために、少数の異教徒をライオンと戦わせて殺すということを正当化しても良いのでしょうか?とか。

みんな悩みます。当然です。
正しい答えなんてないんですからね。

もう一つ例をあげましょう。実際にあったイギリス船籍のヨットが難破した「ミニョネット号事件」です。

船長と乗組員3人の合計4人が救命艇で脱出しました。しかし救命艇の水も食糧も漂流18日目には底をついてしまいました。

そこで船長が提案します。

くじ引きで誰か一人が他の3人のために身を捧げようと。要するに食人です。

さあ、あなたならどうしますか?

僕の選択した答えは、殺さないし、食べないし、かといって自分が犠牲になるのも嫌だとわがままを言いました。天に運をまかせようと。

そうすると、生きることを放棄するのか?我々は常にだれかの犠牲の上に生きているんじゃないのか?と議論が白熱してくるわけですね。

ここでも正しい答えはありません。

実際には船員の一人が反対して誰かが犠牲になることは中止されました。

しかし、一番若かった少年がのどの渇きに耐えかねて海の水を飲んでしまい、ぐったり虚脱状態になったので、

じきに死ぬであろう彼を船長が殺して、その死体を3人の食糧にしたんです。この話は映画にもなっていたと思います。

驚いたのは、読書会で議論を交わした人のほとんどの人が功利主義、

つまり「最大多数の最大幸福」を善だと考えていて、少数の犠牲は致し方ないと考えていたことです。

マジかよ?殺して食べるの?とびっくり。

「長いものにまかれろ」の日本人らしいといえばらしいけど、このメンバーで遭難したら自分は食べられちゃう!と言ったら皆は笑ってましたけどね。

読書会でこの本を通して皆で学んだこと。

それは、将来こういった苦渋の決断をしなければならない状況に絶対にならないとは言い切れないよねってこと。

だから、そのとき自分はどうするかを今から考えておこうって、皆で話したんです。

そうすることで自分というものを一つ知ることができて、それがあることで今後の日常的な選択の助けになるかもしれないし、

自分の選択にはいつも一貫性を持たせることができるよねって。

自分との対話をして、どうするのが自分は一番納得がいく選択なんだろうかと、自分を深く掘り下げていくわけです。

確かに5人死ぬより、1人死ぬ方が犠牲者は少ないんだけど、ハンドルを切ったら、自分が手を下したみたいで罪悪感があるし、ハンドルを切らなくても5人を犠牲にする決断をしたってことで罪悪感はある。

どっちも自分の選択には変わりない。だから、そこから先は自分の良心がどういう反応をするか?しかないですよねもう。

誰かに強制されるべきことではないと思います。

僕の場合は、命の価値を数で判断することにわずかに抵抗を感じたんです。

自分はそのわずかな違和感を頼りに、自分と向き合いました。

だから、多数が助かるために食人をするかと言われたらNOです。

決して命の価値を軽んじているわけでは無いんです。

ただ、そこまでして生にしがみつくということが、僕の感性には合わないんです。

僕は、人間らしく一生を終えたい。そういう美徳があるんですね。

皆さんはいかがいたしますか?そういう極限の状況を想定して議論するのも面白かったですよ。

ありがとうございました。