私達の家のすぐ後ろにある森は途中から国有林になり、標高1000メートル程の尾根まで結構な急斜面になっている。トレイルがあるわけでは無いので散歩というよりは獣道を繋ぎながら登っていく藪漕ぎである。


沢を渡って、倒木をまたいで、岩に登って、崖っぷちをアニマルトレイル(熊や鹿の通り道)に沿って落ちないように行くとそこには…

我が家の窓を開けると沢の音が聞こえる。

村の水道網の外に位置するので、飲料とする水を敷地の端を通るその沢から引いている。沢の水源でもある家の裏の森には周辺に生息する動物達も良く集まってくる。薪小屋の横から沢に下りると、そこには無数にアニマルトレイルが走っている。


山用語で藪漕ぎという言葉がある。

大学時代ワンダーフォーゲル部にいた時も、その言葉をはじめに教えてくれた両親と山登りに行っても、整備された日本の登山道では実際にはあまり藪漕ぎ(ヤブコギ)と呼べるような道を歩く事はなかった。それがカナダに来てからよく藪を漕ぐようになったが、もっぱら漕ぐのは家の裏山だ。獣道(ケモノミチ)という言葉も、耳にはするが目にする事は少なくなった山用語の一つである。木や枝をくぐりながら足場の悪い道を文字通り藪を漕いで歩いている最中に獣道、アニマルトレイルに合流すると、あたかも神の踏み跡を見つけたような喜びを感じる。

はじめはなかなかアニマルトレイルの見分けがつきにくいが、慣れてくると次に行くべきトレイルがパッと目につくようになる。何年もかけて、何匹もの鹿や熊が通った道は踏み固められ、枝も折られて歩きやすくなっている。巨石の庭へ行くにはこのアニマルトレイルを探しながら、家の脇の沢に沿って上流に登っていく。


針葉樹と大きな葉っぱのメープル、白樺の入り混じる森を、倒木をまたぎながら上がっていくと、傾斜が少し緩くなったところで突然、巨石が二つ、門のようにドデンとあり、その奥に幾重にも重なった巨石の庭が広がる。その上はクライミングでもできそうな岩壁になっていて、長い間にその崖から剥がれ落ちた巨大な岩が少し平らになったこの場所に集まっているのだ。



来た道を振り返ると、木々が立ち込むその先に、村のシンボルである単独峰のマウントカーリーが、山裾に広がる森やリルエットレイクまで見渡せる。

私はいつもこの岩の庭に立ち入る前に、巨石の門の前で土地の神様に挨拶する。


地元の先住民の友人が言うには、この一帯は先祖代々、狩猟と採取に使ってきた土地だそうだ。得に南向きのこの傾斜地は多くの鹿が越冬するために集まるらしい。豊富な鹿にたくさんのベリーやキノコ類。私達がここに越して来たばかりの頃、隣人に挨拶に行ったおり、よく地元の人が沢沿いに松茸を取りに来ると聞いた。現在私達の家が建つ場所には、整地前、林の中の4畳くらいの平たい場所に誰かの野営後と焚き火の跡があった。


その昔、ファーストネーションの人々は思春期になると、大人になるための通過儀礼として森に一人で入り、食糧を確保し、焚き火を起こし、一人きりで夜を過ごして帰ってくるピバティートレーニング(ビジョンクエスト)があったそうだ。50代の友人がおそらくピュバディートレーニングを受けた最後の世代かもしれない。彼女から聞いた話によると、彼女のおばあちゃんが若い頃は、夜、カヌーに乗って村の中の湖を移動していると、人々の焚き火の灯りが、星のように山中に散らばっているのが確認できたそうだ。つい最近まで地元の先住民の人々は周辺の山の中をキャンプを張りながら移動して、自給自足的な生活をしていたらしい。同僚で先住民のエルダーであるカールさんが言うにそのような人々が岩に彫ったペトログラフが幾つも幾つも周辺の山には残っているそうだ。


そんな事を思うと、昔の土地の人々が苔生したこの美しい巨石の庭を見て、畏敬の念を抱かなかったはずはないと思うのだ。巨石が積み重なったその奥には、私がトロルの岩と呼ぶ岩壁が聳え立つ。初めて一人でここにたどり着いた時、周りの空気に圧倒されながら岩壁を眺めていたら、丸っこい岩が目についた。自然にあんなに岩が丸くなるなんてスゴイなあ!と思ってみていたら、岩が次第にトロルの顔に見えてくるではないか。感動して写真を撮って洋二郎君と隣人達に見せたけれど、一様にノーコメント。それでもいいのだ。たまに鹿に合うくらいの静かな森を分け行った先に、挨拶する相手がいるというのは私の心をとても暖かくしてくれるのだから。


ある時、トロル岩の前に真っ二つに綺麗な裂け目のある巨石を見つけた。3メートルはあろうと思われる、見上げる高さの岩と岩の間に、ちょうど身体を横にしたら入れる隙間がある。もとは一つの大岩だったものが真っ二つに割れたのだろうか?

奥行きは2メートルくらいだろうか。面白そうなので試しに間に入ってみたら、手前で身体がハマった。足場は悪く、岩の小さな切り込みに足を突き刺しながら進んでいく感じだ。足を踏み外したらズズっと身体を擦りながら1メートルくらい下にずり落ちそうだ。

家の裏山とはいえ携帯電波も届かない山奥。去年松茸狩りに来た地元ファーストネーションの親子が迷ってこの一帯で亡くなっている。やや怖くなり、次回誰かと一緒に来る時まで、プチチャレンジはお預けにした。


10月11日、今日ようやくその日が来た。

異次元への入り口

岩の前で引っかかりそうな服や帽子は脱ぎ、どこかで松茸を探している洋二郎君に、大声でこれから岩の隙間に突入する旨を伝えてスキマに横ばいに入っていった。少しずつ足場を確保しながら、背中で後ろの岩を押して下にずり落ちないようにしながら進み、奥に到達。


するとそこには人一人横たわれそうな平らな岩があり、その上には上半身を起こせるほどの空間があった。小さな祠のように薄暗い空間から、平らな岩に肘をついて上を見上げると、2メートルくらい上方に顔の大きさくらいの隙間があり青空がのぞいている。なんて素敵な空間だ。私が動物か、ピュバディトレーニング中の若者なら絶対ここをネグラにするな。と思った。


岩の向こうから洋二郎君の寝ぼけたような声が聞こえる。興奮の中にいる私とエライ温度差である。幼い子に渋々付き合うような様子の洋二郎君に、両手をあげてもらって岩奥から写真を撮影。はしゃいでいたが、突然、何かの拍子に岩が動いたらヤバいな。とフト思って慌てて脱出した。

岩の奥に到達。洋二郎君が向こうで両手をあげている

余計な思考のせいで、入る時よりもやや慌てながら、岩の隙間から飛び出した時、暗いところから急に出て来たからか、念願叶ったからか、何か世界が前より明るく感じた。


そういえば、その昔旅行で沖縄のセイファー御嶽に行って岩の間を通り抜けた時も、何か不思議な感じがした。子宮から産道を通り抜けてこの世に生を受けるように。狭い所から広いところに出るという動作は、感覚にうったえてくる何かがある。それは同じ場所にいながら、空間や意識を切り替えるようなパワフルで不思議な力だ。


今、私達のいる世界は、色々な制限を物理的、精神的に増やして、あたかも狭い世界を作り出そうとしているかのようだ。

狭い場所から出た時、まず人は目の前に広がる世界の果てしない広がりを感じる。

私達が暗くて狭い道を通り抜けた先には、もしかしたら信じられないくらいに広大な世界が広がっているかもしれない。

家の裏山で、プチ探検気分を味わい、ポッケには手には持ちきれなかった松茸が入っている。足取り軽く帰宅する道すがら、私達のすぐ目の前で、キツツキが一心に倒木をこづいている姿が目に入った。自然の中にいると時折り遭遇する、不思議なほど近い動物との距離感は、極上のプレゼントをもらった時のようにいつも身体中を嬉しさで満たしてくれる。