私にとって、カヤックするには最高のコンディションだ。洋二郎君は数メートル後を漕いでいる。突如、目の前に、高さ3メートル、横2メートルくらいの白いモヤが現れた。⁇超常現象か??こんな晴天下で⁇


ハテナに思いながらも漕ぎ進めると、後ろでプシューっと、あの、心躍る音が聞こえた。振り返ると、ゆっくりと海に潜っていく鯨の黒く光る背中が見えた。

ザトウクジラはここから10メートルくらい先で漁をしていた。

それにしてもなんで鯨に会うとこんなに嬉しいのだろう?胸が満たされる喜び。あぁカヤックに来てよかったと毎回思う瞬間。


洋二郎君に、鯨だよ!と叫ぶと、ホントだ!と驚いた声が返ってきた。ザトウクジラが現れたのは水路のような島と島の間の狭い海峡。


小さいね。と洋二郎君。今さっき潮を吹いた鯨は大きなイルカサイズで、クジラとしては小ぶりだ。しかし私が最初に見た鯨の潮はもう少し大きかった。

しばらく鯨の捕食を観察していると、大きなクジラの背中が水面を割って出てきた。

親子で漁をしていたに違いない。親鯨は長く潜れるから、子鯨の背中ばかりよく見えたわけだ。

鯨のエサ場を後にして、外洋に面した比較的大きな島の周囲をぐるりと周る。それまで小さな島々の間を漕いでいたのに、目の前に見えるのは太平洋の水平線ばかり。断崖絶壁の切り立った様は、悪天候になればさぞかし高い波が打ちつける厳しい場所になる事がうかがえた。


群島の内側を漕いでいる時は安心感があるが、外側に出てくるとウネリもやや大きく、風も感じ、先程の鯨見物の時とは打って変わり緊張感がややみなぎる。ちなみに洋二郎君はここを漕いだ事が今回の旅で一番面白かったらしい。(ウネリが大きく漕ぐのに集中していたので、ここでは写真は撮れませんでした。)


今も昔も変わらないであろう、ありのままの自然がここにはある。海に浮かぶ島々の間を漕いでいると、時々私の頭の中ではタイムスリップが繰り広げられる。杉の大木のダクアウトカヌーで島から島へ移動したり、漁に出たり、貝を採取する先住民の人達の生命の輝きに満ちた日常のヒトコマを、思い浮かべるというより、フト感じるのだ。

しかしこの南端の島の岸壁を見た時は、どこか遠い村から来た侵入者を容易には立ち入らせまいとするような威圧感を感じた。

切り立った岩岩でできた島の外側を一周して、また内海に入ろうとコーナーを曲がった瞬間、そこには大きな背の高い二つの岩が、あたかも遠方から来た来訪者を迎える岩の門のように、そこに立ちはだかっていた。

流木に釣り糸を巻きつけただけのハンドルアーを小刻みに動かすのが洋二郎流

波間に漂いながら、ただただ岩の荘厳さと潮の速さを味わう私をよそに、潮周りが良い漁場を見つけたとばかりに、洋二郎君はせっせと釣りにいそしんでいる。岩の門と大きな島の間にできる流れの中に浮かぶ私達。その先には先ほど鯨が小魚の食事をしていた灯台島が見える。


漂うのにも飽きて、洋二郎君を見ると、張り切っているものの、昨日3匹釣り上げた勢いはなさそうである。私はあまりのんびり漂ってはいられないこの場所を引き上げるために釣り道具の流木を手に取った。私達の晩ごはんとして、与えられるなら魚が来るだろうと、そんな思いとともにルアーを落としたら、ちょうど良いサイズのロックフィッシュ(カサゴ)が上がってきた。

その夜、海から頂いた魚を、テントを張った島の岸辺に生えていたシーアスパラガスと一緒に調理してありがたく頂いた。

夕飯の後、恒例の腹ごなしの散歩に二人で出かけた。この島の内側には巨木がたくさんそびえ立っている。この島にあった集落の、かつてのチーフ達のスピリットが巨木に代わり今は島を見守っています。そんな物語がどこからか聞こえてきそうな荘厳な佇まいである。

巨木エリアに行く手前、浜から木々に隠れていた古い道を見つけてたどっていくと、快適な柔らかさの苔の絨毯の上には古い住居跡を思わせる木の柱が等間隔に立っていた。

巨木エリアを横切り島の反対側に出ると、小さな小川が流れていた。暮らしていくために必要な水がある。その辺りにはホタテや牡蠣の貝殻が至る所に落ちている。巨木に囲まれ、ふんだんな魚と貝、そして辺り一面に広がるワイルドベリーのブッシュがあるこの島は、かつての人々の豊かな日常の息づかいが聞こえてきそうだ。

そんな事を思いながら就寝。その夜、大分前に他界した祖母が夢に出てきた。久しぶり登場した祖母はこれまで出演した時に比べてめっぽう若い。若く輝きを放つ祖母は、何かできる事はないかと聞いてきた。

私は、特にないよ。いつもサポートしてくれてありがとう。と答えた。その横を二十代くらいのこれまた若い母と伯母が通り過ぎて行った。それにしても美しい夢だったと、目覚めてなお夢心地な気分でぼんやり考える。ああ、あの存在感のある祖母の神々しさは、島の巨木の持つそれと同じだ。そんなふうに思いあたった。

島の主はただそこに黙って立つ姿を見るだけで、磁石のように引き付けられてそこを立ち去れなくなる神々しさがあった。小さい頃、母の田舎に帰ると、いつもニコニコと出迎えてくれ、美味しいものを沢山の作ってくれた祖母のお日様のような存在感は間違いなく家の主のそれであった。

そんな事を考えていたら、そうか。鯨に海で会うと嬉しいのは、海のあるじに会うような、そんな感じがするからかな。と思った。あるじ達は何も言わない。そこにいるだけで輝きを放つおひさまのよう。その存在に出会うだけで、力をもらえる。静かな存在感。ドシドシと、大きな声でガバガバ笑う私は、新しく新鮮な魅力に気がついて興奮した。少なくとも私には、おひさまと巨木のような存在感の祖母の血が流れているぞ。そう思ってニンマリした。