こんばんわ。
4noです。
6日ほど、家族で休暇を取り長崎県五島列島の旅をしました。
長崎県では平和公園、原爆資料館にも寄る事ができて久しぶりに「祈り」を天に向かって捧げることをしました。
私は、中学校からカトリックの学校に通っていたので「祈り」に対してあまり抵抗がないのですが、夫航輔さんは「祈る」と言うことがどう言うことなのかわからないと言います。
なるほど!
祈りも習慣みたいなものなんですね。発見です。
今日、ちょうど友達がfbで情報公開をしていたのを目にして、白鳥哲監督の「祈り」を観ました。
今、何を人間は求めるべきなのか?
今まで使ってきた外や他者へのエネルギーをもっと自分自身や小さなコミュニティ、自然に向けるような、そんな感じがしています。
正直、私も道志村に帰ってきて日常の仕事、他者のリクエストに応え続けるような仕事をする事はもうやりたくないなぁ〜と思っています。自分の必要なものだけをこれからは選択していきたい感じが一層高まっています。

さて旅の話。
五島列島では隠れキリシタンの教会巡りと海、鬼岳(おんだけ)を訪問。
五島列島は福江島に拠点を置きながら、上五島へ船で渡ってレンタカーで世界遺産の頭ケ島、上の方の米山教会まで行きました。
まだ、旅の意味についてまとめられていないのですが、私が感じた事は以下の4つです。
ゆっくりと書き進めていけたらと思います。
- コロナ禍で観光客に閉ざされた教会の今の姿
- 元はそこには何もなかったと言う事実
- 隠れキリシタンとカトリック教徒、仏教徒、日本の古くからの信仰である神道
- 地元は地元で成り立っていくみたいな力

1. コロナ禍で観光客に閉ざされた教会の今の姿
今、コロナ禍で観光客がめっきり少なくなった教会を自分たちも観光客ながら巡らせてもらって感じた事は、「本来の祈りの場としての教会が生き生きとしている」という印象でした。
本来、祈りの場はとてもプライベートで神聖な場所です。
それが世界遺産になった事で地域の経済は大変潤ったと思いますが、そこに自分たちの信仰がある人たち、教会自体はそれを望んでいないのでは?という感覚がありました。
今は教会の中に入る事、見学は拒ばまれ固く門を閉じられています。
しかしながら、そこには神聖さと祈りの場が再び保たれて安堵感が漂っていたのです。
私はそれを目にしたときに、人が踏み入る事で場が荒らされる。という事実を感じました。
道志村でも、シーズン中(ゴールデンウィークから秋にかけて)は人がたくさん入って森や山にゴミを置いていく人が絶えず、また車の渋滞で村人が外に出られない事もあり、それは地元の観光業の人たちの生業でもある一方で大切なのは重々承知なのですが、あまりそこで生活する者にとってはよろしくないみたいな複雑な感情もあります。
そこをコロナウィルスの影響で人々の移動が抑えられた事で見えたように思います。