毎年、夏に来てくれる人たちがいる。
高校時代の同級生、一人は写真家、一人は中国と貿易をする商社にいる仲間たち。
今日、増水のこと、天気のことを懸念しつつも、写真家の家族が、Doshi Deer Trail リバーウォークツアーに来てくれた。一緒に友人家族2組と。総勢、大人5名、子供5名。そして、自分の友人1名、息子1名も一緒に。

実施中の写真は、開始前の1枚。最終地点の1枚。それ以外は撮影する余裕がなく。
なぜなら、連日の雨で水量が増水してたから。なんとかいけると思っていたが、子供たちにとっては、それは恐怖の体験だっただろう。
自分も5歳の時に今日と同様の体験をしたことはない。
溢れる濁流に足を取られ、思うままに進めず、流されそうになる。これは怖い。

今日、5歳(年長、年中)の子が2人。その他、年上の小学生達が3人。大人が7人。
大人が子供をサポートしながら、特に、こんな状態ではお父さんが子供と女性をサポートする。

ドラマ。これまで2年、いつも夏に来てくれていた女の子が小学生になり、小さな弟の手助けをする。それだけでなく、自分の息子(年長)も手助けしてくれていた。2年前には見れなかった光景。

自分の息子は、スタート直後に、本流を渡る壮絶な水流に足をすくわれ、流されそうになった。
ハーネスをつけ、自分がスリングを確保していたので、靴を流され、びしょ濡れになっただけで済んだが、本人にとっては、それは怖かっただろう。ごめんね。岸に引き上げた後に、大泣きしていた。自分も泣きますね。本人だったら。

その後も、ツアーは続行し、息子のTシャツを脱がし、裸足のまま続行することを決断。
もう一人の小学生の女の子も靴を1足流されてしまった。だから、お父さんが裸足になり、娘は1足を履いた。
こういう時のお父さん、かっこいい。

そして、いい光景を見た。お姉さんの小学生が、裸足で進む息子のサポートをしていた。「次はここだよ。こっちだよ。」と手を差し伸べていた。自分もまだ小さな身体で、自分のことを支えることさえも、十分でないはずなのに。辺りは、岩に当たって跳ね返る水しぶきでいっぱいだった。

その瞬間の写真はないが、その光景を見て、感動してしまった。今日はいい日だなと。

女の子が初めてこの沢にいつ来たのかも知っている。怖がっていたのも、楽しんでいたことも知っている。
その子が、今、弱い立場にいる人のことを考えて、助けるために行動している。小さな身体で。

そのことを、ツアー終了後に、お父さんに報告すると、「娘はご満悦だよ。富士山に登った時に、沢山、お兄さん、お姉さんに助けられたから。」と彼女が言っていたとメッセージがあった。

そうか。沢山、助けられるという経験も大事なんだ。だからこそ、誰かを助けたいと思うのかもしれない。
そこで思うのは、助けられていても、それを自覚して、他者を助ける行動に、どのように転換できるのか?ということだ。
自分が助けられるのは当然。なぜ、他者を助ける必要があるのか。自分が安全であれば十分。ということであれば、他の人を助ける必要もない。そもそも、誰かを助けることは、自分も危険のリスクを負うことになる。なぜ、自分が安全な状態にあったとして、さらに危険をおかしてまで、他者を助けるのか。

自分のことだけ考えていては、この行動はできない。
つい、手が動く、そうしてしまう、だから世界が成立していると思うが、根源的に考えれば、別に必要はない。

しかし、小学生の女の子が、行動していることを目の当たりにすると、世界が成立していることを感じる。
その点に感動してしまったんだろう。

そう、その世界でいい。そうして、世界が循環していって欲しい。そうした瞬間を自分も見てみたい、経験したいという思いがある。

その後、子供達は滝を登り、お互い助け合い、お父さん、お母さんは子供を確保し、無事にゴールにたどり着いた。みんなで協力した。親も子も関係ない。一人一人が。

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