藤原新也「新東京漂流」ポッドキャストを朝のお風呂タイムに最近聞くのがお気に入り♪

藤原新也は千葉房総に拠点がありそこからポッドキャストを配信している。
人との濃厚接触が禁じられる様になった今の時代に野生動物(鹿)との衝突を自身が体験しそこから見る野生との接触について話していた回。
彼の鋭い社会視点や歴史を考察したものの見方などが大変興味深い。

今の時代だからこそ、都会、田舎で見えてくるものの発信を道志村の山の中で聞いて私も野生との接触について考えてみた。

藤原新也「新東京漂流」Vol.14「鹿との衝突、野生と人間の距離。コロナの時代に思う」 - 藤原新也「新東京漂流」
東京から千葉房総へ運転する車で移動する藤原。鹿の群れに遭遇し、一頭と衝突する・・・

道志村にいるとふとした瞬間に目の前に野生の動物が現れる。

それは、鹿、猪、蛇、リス、狸、穴熊、ノラ猫、ネズミ、など

道志村に住んでいると、人間に会うより野生動物と出会う方が多いんじゃないかと思う。

この前は、車で走っていたら大きなカモシカが崖の上で草を食べているところに出会った。
カモシカに出会う事は滅多にないので、嬉しいなぁ、珍しいなぁとあちらが私をじっと観てくるので、その熱い視線に応えるべく私もカモシカを観る。
目と目で通じ合う?(工藤静香の曲)みたいに、カモシカと2~3分見つめ合う時間が過ぎる。

お互いじっと動かない時間を経て、私が我に返って(やる事あるんだった!と気づいた)車を発信。カモシカもまた草を食べ始めた様子がバックミラー越しに見える。

動物は目や耳、臭覚をじっと澄まして、こちらの動向やこちらの匂いなどを観察しているのだろう。
それを体験すると、人間も昔は分からないものに出会った時はこの様に色々な器官を駆使して対象物を観察していたDNAが再び蘇ってくる様な感覚に襲われる。

また、ある晴れた秋にはタヌキが目の前に現れる。

傷だらけで、足を負傷した様子。

「え?これは傷だらけの狸を助けてそのお礼に優しい男に化けた狸が私のところにやってくる・・・」みたいなストーリー?!とか想像しながらこの日もお互い凝視。

狸の負傷に対してどうする事もできずに、目を逸らす私。
そして狸はどこかへ消えた。

そう言えば、この前も村人に「まず、人間をよく観察してからその人間と付き合え!」と言われたっけ

まさに、村人も野生動物の様に生きているのだ。この世は食うか食われるかの世界を地でいってる感がパンパない。。。。
私にはちょっと苦しいし、どこまでの観察加減が適切かとか全くわかんないし。。。

戸惑う私にたたみ掛ける村人のおっさん(笑

こんな事が村にいてよく起こるんです。
私の様なヘナチョコ移住者は村人から見たら不思議みたいです。

村人から見たら、私は野生動物以下の変てこな存在なのかも?と思いつつ、そう見られている事を
認識しつつ生きていくしかないと思うのでした。

道志村でも年々、山の食料が少なくなってきている事から山から野生動物が降りてくる頻度が多くなってきている。毎年熊は民家に出現しているし、畑は猪被害や小動物被害で荒らされている。

昔は里山と言って、人間と動物の境界空間が広くとられていて、そこで無言の交流があった。養蚕や梅林などがそれを担っていた。住空間だけでなく、そのフィールドで作業をする事で野生動物との距離を適度に保っていたのだ。現在は皆、山に足を向けなくなった。かつての里山は現在ただの空き地。
誰も足を踏み入れなくなった場所は廃墟のごとく荒地と化す。そんな状況を道志村で間近に見る事で野生との接触が直に人間の住む民家や道路ぎわに迫りつつある現状をどの様に捉えていくか?
田舎に住んでいる者として思う。